弁える(押尾学の逮捕に関して)

あんなに綺麗な嫁さん貰って何が不満なんだろうとは思いますが・・・
まあ結局隣の芝なんですかね。それだけでもないだろうし。


自分を弁えるというのが大事なのかなと思うようになってきました。

新しいことに挑戦するなとかそういうことではなく、自分の今の実力とかそういったものを俯瞰できて、それをうまく処理できる能力が必要。

無意味な「誰でもよかった」殺人なんかは処理能力が足りないのだと思う。

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薬ではないがアル中の話。(中島らも「今夜、すべてのバーで」)

「みじめな状態でいるよりは意識を失っていたほうがマシ」・・・か。みじめな人間がすべてジャンキーになるのだったら、世界中にシラフの人間は一人もいなくなるだろう。
同じ苦痛を引き受けて生きていても、中毒になる人間とならない人間がいる。幸か不幸か、なにかの依存症になってしまった人間が、一番言うべきでないのが、プレスリーの台詞(せりふ)ではないか。中毒におちいった原因を自分の中で分析するのはけっこうだが、「みじめだから中毒になりました」というのを他人(ひと)さまに泣き言のように言ったって、それは通らない。それでは、みじめでなおかつ中毒にならない人に申し訳が立たない。私のことをわかってくれという権利など、この世の誰にもないのだ。

この一節を思い出した(頑張ってググったw)。

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